目次

1.今月のことば

2.公文式ってなに〜塾に行く前にすることがある〜

3.子育て回想記~母の想い~

4.こんな文と出会いました。


今月のことば

晏平仲は、善く人と交わる。久しくして之を敬す。

読み方

あんぺいちゅうは、よくひととまじわる。ひさしくしてこれをけいす。

意味

(斉の国の首相)晏平仲は、誰とでもよくつき合った。(そして)長くつき合えばつき合うほど、友人が(晏平仲を)尊敬するようになった。

※お互いを大切に思い、尊敬し合えるお友だちを持ちたいですね。そのためには、自分もそのような人になる努力が必要です。一生つき合える、よいお友だちを持ちましょう。

公文式ってなに

〜塾に行く前にすることがある!読み・書き・計算という、強力な土台を!〜

「公文式って何?」そう聞かれたら答える材料は沢山あります。その中でも一番私が強調したいのは、“公文式は知的学習を立ち上げる根っこ作り、幹作り”だということです。

毎日、ダラダラやっている様に見えるこの単純な計算の繰り返し、何故にこんなに繰りかえさないといけないのかと思う日もあり、塾が効率的で成績を上げる近道のように思う時もある事でしょう。

しかし、塾へ行ってみてそう簡単に成績の上がらない我が子を見て何と基礎が脆弱だったかと思う日が必ず来るのです。
そして、基礎学力が本番の中でこんなに大切とは思わなかったと何度も思うのです。

公文式算数では、足し算の根っこ、引き算の根っこ、分数の根っこ、方程式の根っこ、因数分解の根っこ、それぞれが絡み合って太く育ち、大地の栄養を吸収していくのです。
又、公文式国語では主語、述語のあり方、パラグラフ(段落)というかたまりで文をみる力、算数の文章題の題意を把握する力、そして、自分の考えを記述する力、そんな国語の力が育っていくのです。
公文式英語では“先ず、好きになる”という事に目標をしぼり、その後徐々に英語のルールに触れさせ、高い英文、英訳の世界へと導いていくのです。

こうした、数学、英語、国語の日々のコツコツした基礎の根っ子が、長く、深く地中に伸び、そして多くなればなるほど地上に上げる幹は太く,高くそびえていき、その先に多くの枝や葉をつけていくのです。
コツコツ積み上げたものは短期で積み上げたものより強く、しぶとく、鈍い光を放ち終生その木を支配する事でしょう。

そんな日々の中、2・3学年先のトロフィーを小さいながら目指したりする子は、それを手にする為に、多大、かつ膨大な努力を,そんな小さな身体でするのです。そこから出るエネルギーはただ単にトロフィーを手にしたい、ああうれしいなんて単純なものではないはずです。それを手にするための諸々の苦い体験をしているのです。そして、その体験がまた、その子の根っこ、幹により多くの何かを残して太くしていくのです。この太く育った根っ子が“いざ鎌倉”の入試の時に自分の大きな軸となりゆるぎない得点を手にする力へと結び付くのです。

こうして、考えると公文って凄いと思います。

河合寛次朗(陶芸家)の“過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今を!”
まさに子ども達は日々勤しんでいると考えると私は公文という道具に出会った子ども達全てに太い、高い、根っ子と幹を育てて欲しいし、お家の方にその子ども達を精一杯応援してやって欲しいと願うのです。

 

孫育て進行形~母の視野が子どもの将来を決める~

部屋を掃除していると、出てきたのが 息子の学習カセットテープ。
今、39歳、彼の小5時代の理科のプリントを読んで暗唱したテープです。
第1章 「川の流れ 川の外側は流れが急で岩石は削られ、川の内側は緩やかな流れのため岩石は沈殿する・・・等々」 可愛い 声変わり以前の声で吹き込んであるテープです。

そうそう、思い出しました。中学入試の時、暗記物は、テープに自分で吹き込んで、ある時は車の中、ある時は食事の時に聞いて覚えていったのです。勿論提案者は、母である私。しかし、母の声で録音せず、息子自身に吹き込まさせたのは、やらされ感を払しょくしようという、私の狙いがあったのです。こうした、何十年ぶりの 我が子との戦いの日々を思い出す時、どうしてこんなに、色々作戦を立てて我が子に勉強させたり、又、公文を、竹刀を振り回したりしてまで、させたのかという自分の学力確立に対する原点に、ふと立ち戻りました。

そして、そこに自分の母の姿が浮かび上がりました。そうです。私の母の教育に対する姿勢、期待等様々な事が、小さい時から私の体の中に植え付けられてきたのです。
母は、いつも、言っていました、神社の階段を上る時、坂道で階段を見た時 “お母さんは、この一番下の階段の人生をずっと行くけれど、あなたは、一段上の人生を行くのよ”と、そしてまた “人には何でも可能にする、すごい力があるんだよ“ とも、言っていました。

今振り返ると5歳ぐらいから小学高学年の頃まで、いえ、高校生の頃までも言われていた気がします。「母より一段上の人生ってなに?」と何回も 幼い時に考えた記憶が有ります。
私の母は昔の尋常小学校を出て、貧しさのため、女学校に行かれず、3日3晩泣き明かしたという、話をよく私にしてくれました。友人が行ったのに自分はいけない、その悔しさが貧しさと結びついて、貧しさから抜け出す唯一の方法は、勉強だ!という哲学じみたものを持っていました。そんな母にそだてられた私です。日本も色々な時代を通り、豊かになりました。

ここにきて、私は一段上の人生は?と考えると、18才の時 自分の納得のいく道を選ぶことが出来る人になることだと思い始め、しかし、選べる人に成るには、やはり、確固たる学力が必要だという結論になって、我が子に、勉強!勉強!と、言い続けてきたのだと、思います。そんな訳で、テープが出て時は、”ああ、私も頑張ってきたなあ、“と思って うるうる きました。

教室で 43年間 多くのお母様方とお付き合いしてきました。「母の力」について書かれた本も沢山読んできました。親自身は自覚していないけれど、どの母も、子どもは、自分より ちょっとましな人生を 歩んでほしいと思っているのです。そのため 子どものテストの点が悪いと言っては、怒り、態度が悪いと言っては、嘆くのです。

しかしその根底にある考えを子どもに伝えているでしょうか。そして、心底 “我が子の、計り知れない可能性を、引き出すのも、自分だ”という、意識を常に持っているのでしょうか。子どもの将来は “あなたにかかっている”のです。母の力80%なのです。

公文に関しては “お母さん疲れないで!私がセカンドオピニオンに成りますから”と声を大に、お伝えしたい思いです。

 

こんな文と出会いました。

まさに私が16年前、暗唱大会を企画した時に思ったことでしたので、引用させていただきます。

日本語を体得するという観点からすると、子どもの頃に名文と出会い、それを覚え、体に染み込ませることは、その後の人生に莫大なプラスの効果を与える。文章の意味はすぐにわからなくてもいい。長い人生のプロセスのなかで、ふと意味のわかる瞬間が訪れればいい。

こうしたゆったりとした構えが、文化としての日本語を豊かにする。私の本に採録されたものは文語体のものが殆どである。歴史の中で吟味され生き抜いてきた名文、名文句には、現代の日常的な言葉遣いにはない力強さ、身体に深く染め込むような、あるいは身体に芯が通り、息が深くなるような力がある。

暗誦文化は、型の文化である。型の文化は、強力な教育力を持っている。一度身に付けてしまえば、生涯を支える力となる。日本語の感性を養うという観点からみれば、暗誦に優るものはない。最高のものを自分の身の内に染め込ませることによって、日本語の善し悪しが感覚としてわかるようになる。

言葉の質を感じ取る感性が養われるためには、最高級の日本語にはじめから出会う必要がある。幼い頃に、意味のわからない文章を覚えさせるのは拷問とも言える強制だという考え方がある。私はこうした考えに、くみしない。できるだけ早い時期に最高級のものに出会う必要があるとむしろ考える。

意味がわかるのはそのあとからでもよい。たとえ意味がわからなくとも、その深みや魅力は伝わるものだ。よしんばその時に魅力を感じなかったとしても、後年それを覚えたことに感謝する時が来る。また、それだけの魅力を持ったものが暗誦・朗読される価値を持つ。

現在の小中学校の国語教科書は、一瞬目を疑うほどのレベルの低さである。
もちろん吟味され選択されている文章なので駄文はない。しかし、決定的に欠けているのは、「本格さ」である。「すごみ」のある文章が、ほとんど無い。内容をやさしくし、若い人々に迎合するような、このような変革に対して、私は断固反対である。硬いものを食べてこそ、顎は強くなる。

子ども時代は硬い顎を形成すること自体が主なねらいとされるべきだ。ここに採録した言葉は硬く滋養に溢れている。こうしたものを暗誦するということは、母国語の強い顎をつくることになる。

最高のものを型として反復練習し、自分の技として身につける。このことは教育の基本である。ある程度の強制力を持ってでも伝え、身につけさせるべき何かを持たないのならば、そもそも教育を行うべきではない。
生涯にわたって意味を発し続ける豊かな文化を、身体に技として染め込ませるだけの意思の強みと迫力が教師には求められる。

斉藤 孝氏 著書あとがきより抜粋